【緊急集会】なぜ芸術に公的支援は必要か みんなで考えるニッポンの文化 〜あいちトリエンナーレ補助金不交付問題を受けて~
10月23日(水)に下北沢アレイホールで開かれた緊急集会は、「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付の決定をうけて、私たちをとりまく芸術文化が今、岐路に立っているのではないかとの危機感から開催された。独立映画鍋としては文化庁宛に抗議声明を出したが、ほかの映画関係者はこの問題についてどのように考えているのか、率直に意見を交換できる場をつくりたいという思いから開催が決まった。開催直前には映画『宮本から君へ』の助成金取り消しも報道され、映画における補助金や公共性といった問題がより差し迫ったものとなった。
こうした経緯から、当日は議題を「芸術に税金を使うこと」、「『表現の自由』と検閲」、「公益性とは?」、「今後の文化庁との向き合い方」と4つに分けて、順番に議論していく予定だったが、時間が限られていたこともあり、なかなか予定通りに進まなかった。そこでこのレポートでは、当日の参加者の発言とその後に行ったアンケートで出た意見を、上に挙げた4つの項目に分類しなおして、まとめてみたい。なお、発言者の名前は記さず、発言だけを箇条書きにしていく。
今回の集会には、是枝裕和さんや諏訪敦彦さん、太田信吾さんといった映画監督をはじめ、スカイプで参加してもらった「あいトリ」のパフォーミング・アーツ部門でのキュレーターを務めた相馬千秋さんなど、80名ほどの参加者が集まり、また7社のメディアからの取材もあった。
1. 芸術に税金を使うこと
あいちトリエンナーレへの補助金不交付に関して、文化庁への反対の声があがる一方で、「文句があるなら自腹でつくれば?」、「市民を不快にさせる芸術になぜ補助金が?」、「税金に頼るな!」といった意見もネット上で目立った。芸術に税金を使うのはなぜなのか、そもそも使うべきなのか、使うのならばどのように説明すればより多くの人々に納得されるのか。
◆なぜ芸術に税金を使うのか
○多様性を確保するため
●ゴッホの例をみれば分かるように、芸術文化の価値は同時代の市場原理では計りきれない。だから国がそうした市場原理から外れるような作品を保護していかなければならないはずだ。また、実家が裕福であるとか、各個人の経済状況によって芸術製作が左右されるのもあってはならない。貧困でも製作をできるよう支援が必要。結局、「自腹でやれ」は、文化の多様性を妨げてしまう。フランスでも興行ランキングを見るとメジャーな映画ばかりだけど、それでもアート系の映画作家が自分の作りたいものを持続して作り続けているようなシステムがある。
○そもそも必要
●ハリウッド映画だって税金をもらっているのだから、日本映画ももらって当然。映画はお金があればクオリティがあがると訴えていけばいいのでは?
●フランスなどの制度と比較するお話が多いが、国によって歴史的・文化的コンテクストがかなり異なるので、あまり単純な比較や参照だけでは有効でない。良し悪しは別として、日本の場合、国が芸術活動を支えるという発想に馴染まずに、むしろ民間の力で独創的に歩んできた傾向が強い(それは、欧米式の「民主主義」が日本に根づいていないこととも関連している)。とはいえ、曲がりなりにも先進国を標榜するのであれば、芸術分野は国を豊かにする上で欠かせず、そこに税金を使うことは国の発展のために必要なのだ、という基本的なロジックを貫くべきだ。
◆どうすれば税金を使うことに理解を得られるか
○国民の関心を集めるべき
●税金は国民全員に再分配されるもののはずだが、芸術家がその国民の枠組みに入っていない。作家も大人しくて閉じこもりがちだ。国民の関心を集められていないと思う。もしスポーツで今回と同じようなことがあれば反発は大きいだろう。国民の関心が芸術に向いてないから、国はそれを無視できる。
○作り手だけではなく、受け手への助成を
●もちろん作り手に対する助成は必要だと思うが、フランスで聞いた話では、高校生たちが映画を見る時に国から「お小遣い」が出ている(そのときの通訳はそう訳したとのこと)。見る側の環境を充実させていくために税金を使えば、公益性について反対する人は少ないと思う。そういうことも大切なのかもしれない
●必ずしも映画製作や映画祭への助成ばかりでなく、例えば市民が利用できる公共のアトリエがあったり、利用可能な映像や音楽のアーカイブが作られたりというように、市民が芸術にもっと関われるような使い道に使われる方が、市民の芸術への理解を高め、かえって映画製作への助成に対する理解にも繋がってくるのではないかと思う。芸術を市民生活の中に位置付け直さなければいけない。今回の集会に参加してくれていた高名な芸術家の皆さんがもっと教育の現場に出てゆくこともいいと思う。特に小中学校の教育の現場へ。必要性を論理的に主張するよりもまず行動してしまい、その必要性を認めざるを得ない状況を作り出してしまう方が実は早いのではないか。
○街の風景を記録、保存できる利点がある
●その映画で撮った街の風景はもう変わってしまった。映像が街の風景を記録するということに、助成側は価値を見出して欲しい。
○映画の品質を保証し、資金集めに生かせる
●ワイズマンの映画、『ニューヨーク公共図書館』を見て、「公共のお金があるからこそ、民間のお金が来る」という言葉が印象的だった。助成金を得ることで、その映画の品質保証になる面はあって、そこからさらに民間のお金を引っ張ってこれる。
◆そもそも「芸術」はどのように認識されている?
●「天皇を侮辱するのがアートなんですか?」という意見が出たが、そこに「いや、これは表現の自由ですよ」と言ってまともに議論をしても出口はない。「不快だ」ということにどう対抗するのか?むしろ「だから助成金が必要なんだ」ということが前提として共有できていなかった。これは教育の問題だと思う。快か不快かの価値基準では税金は芸術には出せない。心地いいものだけが芸術ではない。
●あいちトリエンナーレで問題になったのも、しんゆりで見送りになったのも共に慰安婦にまつわるものであった。あいちで展示されていた慰安婦像は、美的・形式的な側面よりも、明らかに政治的な意味合いが濃厚だった。公的支援打ち切りや上映中止の決断が下された作品は、美術作品や映像作品として造形されたものには違いないが、美学的・表現手法的な観点から反発されたものではなく、ごく単純に、政治的なコードに触れたがゆえに問題視されたという、「政治」の話だったのではないか。
これは、「芸術は同時代人には理解されない」という宿命論とも実は関係なく、寧ろ「理解されやすすぎる」ことによる弊害ではないか。作家における美学的・形式的な興味関心の衰退が、政治的な領域における安易な表現を希求して、結果センセーショナルな話題性において、どうにか独自性を保とうとする……そのような衰退もまた、私達同時代人に散見される深刻な問題なのではないか。
2. 「表現の自由」と検閲
脅迫による不自由展の閉鎖とその後の助成金不交付は、国家が表現の自由への弾圧に加担し、検閲を行っていると批判があがった。しかし、今回の一件はこれまでに起こった、似たような表現の自由の問題とどのような点が同じで、何がちがうのか?日本における検閲にはどのような特徴があるのだろうか?また、『宮本から君へ』への助成金取り消しは、どのような問題があるのか?
◆あいちトリエンナーレの件の特徴とは
○事務的なロジックによる検閲
●公共の文化事業における介入は前からずっと経験してきた。しかし、今回の文化庁は、不交付を決めた人は誰もあいトリを見にこないで、外部審査員に何の説明もなく、事務的手続きだけでやった異例中の異例の出来事。事務的なロジックをつくって、それが先例となってしまった。
◆日本における検閲とは
●大阪市から予算をもらって作った映画を映画祭で上映するときに大阪市から「このままでは上映できない」と言われた。覚せい剤や統合失調症、西成というテーマや、「どん底」という言葉を消してほしいということだった。結局、助成金は返納した。
●上の例は、内容に踏み込んでしまう検閲。現実に踏み込むとさらに差別を助長するという論理。それは芸術の荒々しさを削ぎ落としてしまうもの。
○自主規制が問題
●日本と海外のアーティストでは、検閲について認識の違いがあった。リスクマネジメントとして作品を引っ込めることそれ自体が検閲だというのが海外の認識。日本ではタブーがぼやっとしていて、ボーダーが見えづらい。直接それが問題かを議論せずに、外堀ばかりが埋められる。今後は多くの公共的文化事業で、内面的自主規制がつづき、タブーには触れない風潮になるだろう。
●助成金が出る出ないの問題と、検閲とは分けて考えたほうがいい。韓国の検閲は厳しいし、アジア中で検閲がある。日本は自主規制。本当の検閲を日本はまた受けていないので、踏ん張らなければならない。
●あいトリのニュースや『宮本』の助成金不交付にニュースに寄せてそれを検閲と捉える主張があったが、少し大袈裟というか論点のズレを感じた。今の日本の状況の問題は検閲ではなく自粛にある。検閲という言い方をすることで、本来「私たちの問題」である自粛の問題を「行政の問題」ばかりであるかのように見誤ってしまうのではないか。現状に即さない極端な表現を用いることで国民の中の穏健な意見の持ち主を置いてきぼりにしてしまいやしないかと懸念している。今回の不交付の決定がそうした自粛を促すことになるという意味で行政の判断が不適切なのはいうまでもないが、そこで自分たちの在り方に自覚的になることが何よりも大切だ。
●「表現の自由」は、当たり前に得られる状況では主張する必要を感じないが、現在の日本では、残念ながら積極的に主張しなければならない。戦時期日本の映画制作について研究しているが、最近の「表現の自由」をめぐる問題を見ていると、戦時期の文化状況と似通ってきていると感じざるを得ず、非常に危機感を持っている。戦時期においても、芸術表現に対する制限は急激なものではなく、じわじわと強まっていったため、当時の表現者たちも違和感を覚えつつも、社会の「空気」を感じて徐々に順応していった。最近の日本社会の芸術表現に対する反応も、それに近いものがある。社会の相互監視の中で、表現者が自主規制を行い、自ら萎縮していくという構図。そうした社会を望まない一人一人が、積極的に「表現の自由」を主張し実践し続けることが重要だ。ただし、ヘイトスピーチなどを「表現の自由」とする勢力には、反差別の観点から明確に反論する必要もある。
○普通の人を意識する
●あいトリ問題では、権力側が普通の人が何を考えているのかを感じ取っている。アートとか映画とかは余裕がある人がやっているというのを庶民は思っていて、それを汲み取っているだけではないか。基本的な表現の自由やリベラルに世界的な反感が流行している。余裕があることへの拒否反応だ。まじめに公益性について議論してもだめで、普通の人の感覚を考えたほうがいいのでは。
◆『宮本から君へ』について
○芸術文化振興会の問題
●『宮本から君へ』については、あいちトリエンナーレとは別の文脈で考えた方がいい。文化庁がやめろと口出しをしたのではなくて、文化庁の所管で独立した機関である芸文振が決定したことが深刻な問題。「国が薬物を容認するようなメッセージを発信する」と理由を挙げているが、なぜ国から独立しているはずの機関が国の立場を慮らないといけないのか?
●芸文振に『宮本から君へ』の件の前に行って、助成のあり方について話をした。かつてあった運用益がもうなくなってしまい、今の助成金は文化庁予算がほぼ100パーセント。文科省の顔色を伺わざるをえないのではないか。
○助成のあり方
●アームズ・レングス原則「行政は金は出すけど、内容には口を出さない」を徹底するべき。
3. 公益性とは?
『宮本から君へ』への助成金取り消しでは、「公益性」という言葉がその理由として用いられた。日本において「公益性」または「公共性」というものは、どのように理解されているのだろうか?
○「公益性」という言葉の曖昧さ
●「公益性」という曖昧な言葉で取り消しを行うのは、具体的な根拠を明らかにせず、なんにでも適用できるので危険。
○「公益」と「国益」の一致
●公益と国益の区別がついていないと思う。文化をめぐって語られるのは公共の福祉のことなのだが、今回文化庁が使っている公益は、国益と同じような意味になっている。ここ20年くらい「公共」というものの価値が、国益に一元化されてきている。
●民主主義社会の場合、公共と国家は必ずしもイコールではないということ。むしろ、国のあり方を批判することも公共の利益の一つである、と堂々と主張すべき。
●芸術は道徳よりもむしろ、不道徳でありながらも世の中に確かに存在する人間の異常性に目を向けるところにその公益性が発揮されるのだと思う。「表現の不自由展」は、それによって傷ついた人がいたのだとしても、多くの人がそうした表現が確かに存在するという事実に目を向ける結果となり、芸術の在り方についての議論を世の中に巻き起こした点でかなり公益性があったと言えるのではないか。
4. 今後の文化庁との向き合い方
ここまでの議論を踏まえたうえで、文化庁とこれからどう向き合っていけばいいのか。映画鍋のスタンスは、文化庁には抗議するけれど対話は続けていくというものだが、映画界全体としてはどのような姿勢で取り組むべきだろうか?
●映画人の意見がまとまってないなかで対話の道をとざしていくべきでない、だから批判はするけど協力はする姿勢でよい。
●文化芸術に携わる人々が連帯して、文化庁に積極的に意見していくしかない。とくに表現者は「社会的少数者」かつ「プロフェッショナル」という立場から、強く主張し続けることが重要だ。国際社会の反応なども利用する形で、文化庁が耳を傾けざるを得ないような状況を作っていくべき。文化芸術に携わる者としてのプライドを持って、時の政治権力に対抗することも含めて、「表現の自由」こそが社会を豊かにする、というポリシーを徹底して貫くべきだと思う。
●映画鍋での議論は、現状については非常に精緻な考察と議論がなされていると思うのですが、どうもフランスの制度との比較が多く、それが現実的な議論なのかという点を疑問に感じる。今回の助成金の不交付の件について抗議をし、対話を続けてゆくことは当然必要ですが、並行して税金に頼らない芸術製作を模索する試みも必要だ。民間から集めてしまったら公的資金の不交付に正当性を与えてしまうことになるとおっしゃっていましたが、その民間の資金のネットワークを日本にとどまらず世界に広げて募ることができたらまた状況は違うのではないか。グローバル化の進展によって、国家の重要性はこの先どんどん低下していき、一方で、文化や経済は軽々と国境を越えて、世界中の都市とのネットワークを構築していく。芸術は必ずしも国家を必要としない。芸術が公的な資金を必要とするのは事実だが、その「公的」の意味を世界市民という意味にまで拡大して考えることができる時代に私たちは差し掛かっているのではないか。今の日本の芸術の置かれている状況を世界に訴え、賛同者から資金を募ることによって、国家に頼らない芸術製作が可能になるばかりでなく、日本の政府は世界から厳しい批判の目で見られることになる。政府が国家の存在感を維持したいと考えるならば(そして正しい判断力を備えているならば)、政府は存在感と世界からの信頼を回復するために、芸術への出資を緩和せざるを得なくなるのではないかと。これはもしかしたら、はるか遠く未来の話なのかもしれないが、そうした未来形の議論をすることによって未来を少し近づけることができるのではないか。
○その他の意見
●チェコ政府は映画産業に多くの支援をしている。例えば、チェコ国内で撮影をすれば、チェコで使った制作費の半分をチェコ政府が出すシステムがある。残念ながら日本政府は映画産業の経済効果を全く期待していないので、クールジャパンと言いながら、アニメも海外の製作に流れていってしまう。インドはロサンゼルスとの時差を利用して、デジタル作業を請け負って、大きな産業になっている。
日本政府は映画に無関心である。殆どの日本映画は海外に売れていないのも、その無関心に拍車をかけている。作り手側にも海外で回収できる作品作りを意識する必要がある。今後はいかに闘っていくかを強力に考えなければならない時期にきている。
●今回、様々な監督達が発言をしたが、著名な監督が発言する際にだけカメラが集中するのにはやや閉口した。日本におけるポピュリズムやマーケットの惨状を語っている「場」そのものが、奇妙な形でそれを踏襲しているように思われた。
感想
この集会は、映画業界としての統一的見解をまとめる会ではなく、様々な意見を可視化し、今後の映画文化のために私たちは何が出来るのかを探っていく場だった。当日とその後のアンケートではたくさんの人から意見が集まり、様々な論点が見つかったが、そこからは共通の問題意識も浮かび上がってきたと思う。日本では税金を使うための国民的な関心が芸術には集まっておらず、受け入れられる芸術も「美しく、快適なもの」でしかないこと。政府からのあからさまな検閲よりも、自主規制のほうが蔓延していること。「公益性」という概念が「国益」に回収されてしまっていること。
こうした状況を改善するのには時間がかかるが、芸術は社会からある程度自律したポジションから既存の価値体系やものの見方を問い直すものであり、そのことで世の中を多様で豊かにしていく、と繰り返し主張していくこと、またそうした理解を広めるためにも受け手側への助成や教育を進める、という意見には説得力があった。曖昧な自主規制は対抗しづらいけれど、その都度声をあげて問題を共有していくことが大切だ。そうした地道な活動を続けることで、私たちのもとにも「公共」をつくりあげなくてはならない。国家はたった一つの公共なのではなく、そのうちに複数の異なるタイプの公共が寄り集まることで成り立っている。だから私たちは、国家に対抗できるようなしっかりとした公共をつくり、より幅広く安定した活動を行える国家を監視し、要求し、育てていくべきだろう。
この集会のあと、しんゆり映画祭で一度中止された『主戦場』の上映が、それに異を唱える映画人たちの活動によって復活したことはすばらしいことだったと思う。そうした場を維持し、これからもどんどん立ち上げていきたい。
【レポート:新谷和輝】