ホーム > レポート > <採録>第19回東京フィルメックス 連携企画「インディペンデント映画と公的支援~日本の映画行政について考える~」●PART 2: 日本の実情を考える

<採録>第19回東京フィルメックス 連携企画「インディペンデント映画と公的支援~日本の映画行政について考える~」●PART 2: 日本の実情を考える


【日時】2018年11月18日(日)11:30開始(13:30終了)
【会場】ビジョンセンター東京有楽町 C・D合同ルーム
【ゲスト】諏訪敦彦[映画監督/東京藝術大学大学院映像研究科教授]
荒木啓子[ぴあフィルムフェスティバル ディレクター]
近浦 啓[映画監督]
【聞き手】深田晃司[映画監督/独立映画鍋 共同代表]
【総合司会】土屋 豊 [映画監督/独立映画鍋 共同代表]

第19回東京フィルメックス連携企画は三部構成で、Part 2では、登壇者の紹介後、なぜ日本のインディペンデント映画に公的支援が必要なのか?をテーマに、諏訪敦彦監督、PFFの荒木さん、近浦監督を交え意見交換、Part 3で登壇者全員を交えてのディスカッション、最後に会場からの質疑応答をしました。

Part 2: 日本の実情を考える



土屋:早速、第2部を始めます。
深田:日本の公的支援についてですが、独立映画鍋では、2012年に発足してから何度かこういった勉強会を開催していて、文化庁の方にもお越し頂いています。ディスカッションをしながら提言をしたりとかしてきているのですが、その時に彼らから問われるのが、なぜ今、政府が皆様の税金を使ってインディペンデント映画を支援する必要があるのか、ということです。映画行政の側の文化庁の方からしても、映画人自身が何を考えているのか、まず知りたいということです。今回FILMeXという機会を頂いて、まず映画人の側で、公的支援の在り方について考える場を設けようということで、今回3名のゲストにお越し頂きました。皆さん、キャリアも映画との関わり方もそれぞれ違うと思うんですけど、お1人ずつご自身のキャリアも含めて、今まで、日本に限らず助成金や公的支援にどう関わってきたのか、関わってないならなぜなのか、公的支援についてどう思われているのかをお聞きしたい。
諏訪:日本の実情を考える場なんだけど、あんまり日本の実情を知らないという・・・。と言うのも、僕は長編映画を6本しか作ってないんですけど、そのうち3本はフランスで作りました。今年公開された1番新しい映画『ライオンは今夜死ぬ』という映画は一応フランス映画です。フランスの公的助成を受けていると同時に、文化庁の国際共同制作に対する援助、それからフランスの地方の助成金。すべて助成金でできています。
深田:じゃあフランス映画っていうことは、合作という形じゃなくて?
諏訪:日本はフランスとの合作協定がないので、さっき話にあったシネマ・デュ・モンドではなく、僕の場合はフランス映画に対する映画前貸し金制度を利用しています。製作費の50%を貸してくれ、収益が出ない場合は返さなくていいという制度。出た場合はそれなりに返還しなければいけないんですが。ただし、これはフランス映画が対象。では、フランス映画とは何かと言うと色んな議論が起きる非常に難しい問題なので、議論が起きないようにシステマチックになっています。
『ライオンは今夜死ぬ』では監督が日本人なので、マイナス3ポイントなんです。これに加えて、主演がもし日本人なら、更にマイナス3ポイントでマイナス5ポイントを超えてしまうと、それはフランス映画とはみなさないというシステムなんです。だから仕上げの時、音楽は日本人に頼みたかったんですけど、ポイントがなくなるからやめてくれとなりました。ただ、半分しか助成されないので、半分は自分達で用意しなければなりません。フランスの場合多くはその半分を、アルテという文化放送チャンネルがあるんですけど、アルテが出すんですね。放送局もある程度、収益を映画に還元しなければいけないという法律があるんですね。アルテの支援は、僕は落ちたので受けられなかったので、残りの部分を文化庁の国際共同制作の支援ということで、サポートして頂きました。僕はフランスの助成金というものがなければ、映画は撮れていないだろうと思う。ここ10何年位の環境では、日本では難しかっただろうなと思っています。フランスの助成金の状況については多少話が出来るだろうと。
深田:ありがとうございます。では、順番に、荒木さん・・・。

荒木:ぴあフィルムフェスティバルは、もともとぴあという雑誌社がやりたかった映画祭なので、プライベートカンパニーの名前がついていています。ぴあと言う名前で企業とイコールの映画祭なので、公的支援を得るのは本当に難しい。無理を前提に何が出来るかということで、営業の担当の方が知恵を絞って日々考えているというのが現状です。映画祭はもともとヨーロッパから始まったもので、それのセオリーでいくとほとんど公的に、国とか市とかのお金で成り立っているのが映画祭ですけども、ぴあフィルムフェスティバルの場合、それはあり得ないということで、色々なことをしています。
私は実は20年位前に、ヨーロッパの映画製作援助システムのリサーチに行ったことがあるんです。その時に、あらゆる国、イギリスやフランスやドイツの映画製作への援助の話を聞けば聞くほど、あれ?って思って。全く知らなかったけど、ヨーロッパのプロデューサーとは、公的資金をどうやって取ることが出来るか、どういう技術があるかってことなんだということに愕然と気付きまして、プロデューサーという概念が日本とは全く違うということが分かったんです。私はそういうプロデューサーが日本にいっぱい出てくればいいと思います。なぜならあらゆる産業が、公的支援をどうやって獲得するか、その技術で成り立っているんです。その技術はとても大事なんです。そこを映画学校とか、教えたほうがいいんじゃないでしょうか。映画学校は、色々教えないことが多いなと思うんですけど。映画の尺や内容のこととか、戦略的なことをもっともっと教えて欲しいと思います。
公的資金を使って映画を作ることで話せる経験は、PFFのテーマの一つである「才能の育成」としてのPFFスカラーシップという長編映画製作プロジェクトを1984年から継続していまして、文化庁或いは、日本芸術振興基金への助成申請活動を行っています。もう一つ、映画祭というネットワークの中で、企画コンペがとても増えているんです。皆さんが企画書を持ってプレゼンするということで、そこでスポンサーやプロデューサーが見つかることがすごく増えていて、そういった場に作品の紹介をすごく頼まれるんです。そういうことをもっともっと広げていきたいなと思います。この対話の中で、自分の出来ることを明確に出来たらと思います。
深田:確かに映画学校で色々教えてないことは多いなと思いますね。先ほど話にでた、シネマ・デュ・モンドでも、長編映画1本目、2本目までは新人扱いで、3本目からベテラン扱いになってしまうから急にハードルが上がってしまうという。特に日本だと、若手にどんどん超低予算で長編映画を作らせて、気がついたら新人じゃないってことが結構よくありがちなので。そういったことを含めて出来ることは色々あるのかな、と思いました。では、近浦さん。

近浦:この作品は長編第1作で、それまでは短編映画を3本撮りました。今回は日中の合作となります。もちろん最初は文化庁の国際共同製作の支援も検討したのですが、予算を積み上げていくと、その当時の助成対象の下限の1億円に届かず、無理でした。日本から4分の3、中国から4分の1出してこの映画を作りました。たまたま色んな縁でポスプロをパリでやることになり、ワークバージョンを何社かのセールスエージェントに送ったところ、数社からMG付きで契約の打診がありました。その中の一社とセールス契約をしましたが、決まった後が割と大変で、尺のことを強く言われました。最初僕の中でほぼ完成版だと思ったのが128分ありまして、それじゃダメだと。フランスで配給する場合、CMが上映前に沢山入るので、尺を110分以内にすることを要求され、それから再編集始めました。3月ぐらいに完パケが出来上がる予定だったのですが、結局終わったのは7月になりました。その後運良くトロント映画祭に入選することができ、スムーズにワールドプレミア上映ができましたが、制作における国際的な常識というか、そういったものを色々と痛感する機会になりました。
日本の助成について僕が思うこととしては、今応募要項とか見ている限り、日本の助成というのは撮影をすることのみに主眼を置いていますが、実際に映画というものは、撮影をすることはほんの一部で、実際は撮影の前の、企画を立ち上げたり脚本を書いたり、その後に、本当に大変なんですけどP&A(配給宣伝)にもそれなりにお金がかります。その辺りの支援が、僕が見る限り、どこにも見当たらないというところが厳しいなあと個人的に思います。今日は、経験豊かな方達のお話を聞きたいと思っています。

フランスから助成金を得ること


深田:ありがとうございます。お聞きしたことを掘り下げていこうと思うんですけども、諏訪監督の場合は、最近はフランス助成金をもらうことが多くて、最新作についても日仏合作ですらない純粋なフランス映画として撮影されたそうですが、日本よりもフランスの方は助成が取り易いという状況については、どういうところにあるんですか?
諏訪:僕が取った日仏合作の助成金も、今回は通ったんですが『ユキとニナ』の時は、僕の場合は大きな問題があって、完成台本がないから、取れなかったんです。
深田:そうですよね。僕もシネマ・デュ・モンドの助成金を『淵に立つ』という作品でもらったとき、脚本重視なんですよね。脚本を審査されて助成金が出るかどうか決まるって言うことが多い中で、諏訪さん、どうやって取ったのかなって…。
諏訪:『ユキとニナ』では取れなかったんです。フランスに行くとみんなに言われるのは、「とにかくシステムなんだから、完成台本書くだけ書いて出せばいいじゃない。撮影の時変えればいいんだから」と言われたけど、その時のプロデューサーと「何でシステムのために自分たちの映画作りのやり方を変えなければいけないの?」という根本的な疑問がぬぐえなかったので、セリフがちゃんと書かれてない台本を出したんです。落ちましたけど、今回通りました。
深田:それは、同じようなやり方で?

諏訪:完成台本はないです。以前はフランスでも企画意図が1番大事だったんですけど、最近は脚本重視になっています。そのことの弊害をぼくは感じていて、フランスの映画はみんなそのシステムを利用するので、みんな面白い脚本書くわけです。面白い脚本はいいのだけれども、映画の作り方の多様性がなくなってくる。ヌーヴェルヴァーグで面白かったのは、勝手にやってる訳なんですね。色んな映画があって、多様であるという時には、凄く力強いものになってくると思うんですけど、システマチックになってくると、そういう意味で画一化されてくる面がでてくる。だけど変わってきているのも確かで、今回完成台本はなかったけれども、それでも受け入れてくれて、監督面接というのがあり、ゴダールでも面接に行かなきゃいけないんですけど、それが総合的に認められて、完成台本なしでもいいという風に変化してきたというのは感じています。
深田:そうですよね。結構、フランス国内向けの助成金に対するフランス人の批評とかインタビューを読んでみると、CNCの助成に対する批判みたいなのが起きてはいるみたいですね。
諏訪:ただ、税金を使ってないので、例えば文化庁の申請書類でも、例えば活動の企画意図、本活動がどういう影響を社会にもたらすか、公的助成の意義を簡潔に述べて下さい、と書いてある訳ですね。「この映画を作ることで、社会的意義、公的助成の意義があるからお願いします」って言うことを、各作品が表明しなければいけない訳です。みなさんどう書いているのかなって思うんですけど。かなりでっち上げなきゃならないと思うんですよ。これを、個々の作品が表明しなきゃいけないというのが日本の状況であって、フランスの申請ではそのことを問われないです。「この映画がどういう意義があるのですか」とかが問われない訳です。「どのように芸術的な野望があるのか、野心があるのか、どういう作品にしたいのかを述べよ」というだけであって、それがどういう社会的な意義があるのかを作品が説明する必要は、ないじゃないですか。
深田:確かに、海外では私なんかも必ず監督ステートメントを書かねばならないですが。監督がなぜこの作品を作りたいと思うのかは、おそらく日本以上に重要視されます。それはプロデューサーに持って行くにしても。重視されるんですけどもそこに公的な価値を書かなきゃいけないと言うことは全然なくて、単に熱い思いを書けばいいという。
諏訪:公的な価値を書いた場合、これは芸術的な活動と反故を起こす訳です。これは本質的にそうですよ。その矛盾というのを抱えたまま、日本ではやらなきゃいけないということですね。
深田:そうですね。Part3のディスカッションの場で、こういう話になるかもしれませんけど、おそらくヨーロッパの求めてる多様性と言うものが、ただ単に、できるだけ平等な競争原理の中で、映画監督が好き勝手に作れる環境を整備するということであって、それが助成金や諸制度の役割であると、よく感じますね。
諏訪:ただ「フランスはいいね、フランスはやっぱり違うね」っていう所で終わってしまうと違うなって思うのは、フランスだってそれは最初からあった訳ではないんですね。やっぱり歴史的に勝ち取っていったものだと思うんですよね。
深田:毎回この話になると、定番のようにしているんですけども、フランス人と韓国人で全く別の場所で同じ文句を言われた時があって。「そちらの国はたくさん支援があっていいよね」と、ぽろっと言ったら、結構真顔で、「何言ってるんだ。俺達は戦って勝ち取ってきたんだ」と。
土屋:だから諏訪さんも、フランスで映画を撮ってあれですけども、日本でもう一回、日本のシステムを変えていこうという活動を一緒に頑張りましょうということを、ちょっと言いたかったんですけど…。

諏訪:独立映画鍋で、こういうディスカッションしましょうというのは、凄く大事だと思うし、僕も出来るだけやれることがあれば。自分もある意味で、たまたまフランスから助成を受けられるような形にやってこれたから、自分もその道を選んだし、だから日本で撮れなくてもいいやっていう風に選んだけど、じゃあお前はいいけどみんなはどうなのみたいな話がありますので。他の人はどうすればいいんだろうっていう。やっぱり誰でも応募すればフランスの助成金を受けられるという状況ではないので。
深田:荒木さんは、ぴあフィルムフェスティバルと言う一企業の冠が付いてるという、映画祭としては、世界的にも多分、珍しい立場にあると思います。荒木さんは上映側の立場になると思うんですけど、日本の助成金制度の問題点でよく言われるのは、映画づくりというのはホントは脚本を書いて作って配給・興行するまでが全部ワンセットであるのに、制作にばかり助成金が集中しがちであるという点ですね。興行・配給についての助成金についてどう思いますか?
荒木:公的資金の話の前に、国とは何か?ということが凄く大事なんじゃないかと思います。国って何なの?私の解釈では、国というのは国民が安心して人生を送れるために、何かの制度を作るのが仕事なんじゃないの?どんな人でも、どんな人生を送りたいと思った人でも、安心して死んでいけるという理想の下に進むのが国じゃないの?と私は思っているんですよ。その中で自分が出来ることは何なのかなって思って、映画祭で何が出来るかということを考えてるんですけど。映画を作りたいと思った人、何か表現をやりたいと思った人が安心して死んでいける、安心して日々を過ごしていけることを保障するのが国の役目だと思うんです。だからそれを貰うことを、恥じることも遠慮することも全くないと思うんですよ。今、国会議員が年収2,200万円歳費を使っているって言いますけど、じゃあその歳費2,200万円を使う国会議員に、そういうことを考えている人を送りこめばいい、というのが国民の義務なんじゃないかと思うんですよ。だけどなんか人気投票みたい

に、有名人に入れちゃうようなシステムが作りあげられていて、それを見て、この人を入れたいというのを見抜く努力が私達に必要なんじゃないかと凄く思って。フランスや韓国で戦っているよって映画人が言うのは当たり前だと思っていて、やっぱりそういう人を国会に送ろうとしている人達に沢山会いましたし。私たちも国から戴いたり貰ったりするのでなく、当然の権利なんだっていうことで、皆さんも、始めればいいと思います。PFFは、ぴあという民間企業が会社が存続する限りPFFを継続したいと言って実行しているところが、他の映画祭と違って特殊なんです。PFFを止めたくないのが、ぴあって会社なんです。そこが全然違うとこだなと思います。堂々としていましょうよ、みんな!映画を作るというのは素晴らしいことなのだし、映画は素晴らしいものなのだから、もっと堂々としましょうよ。
深田: こういう議論になると、やっぱり助成金もらって映画を作れるのかというような議論になることがあります。上の世代の監督の方と話していると、特に。彼らにしても税金をもらって映画を作るということに、アレルギーというか何かそれぞれの忸怩たる思いがあると思うんですけど。やっぱりお上からもらうものっていう発想である限りは、税金に対する意識は前に進んでいかないのだろうな、という風に感じることが多いです。
諏訪:今、聞いて、そんなこと全く考えたことがなかったです。
一同:(笑)
諏訪:もらって申し訳ないとか全然思ってなかったですね。僕が感じるに、日本の場合、戦後の時間の中で、やはり、例えば音楽であれば、音楽のコンテンツが重要なんじゃなく、いかに、再生機器が売れるかが大事な価値というものを、長い時間かけて共有してきた体質っていうのを、政治的にも国民感情的にも体質として持ってしまったから、だから公的資金を映画に出す事は、「どうしてなの?」って言うそもそもの議論を、まだしなきゃいけない。価値を社会的に共有してこなかった、例えば映画だけじゃなくて音楽も美術もそうかもしれないけど、そういうところが日本の場合は、非常に大きな課題として残った、残っているという感じがします。フランスの場合は、やっぱり、2005年ぐらいに文化大臣だったジャック・ラングが「映画は芸術である」と政治的に意思決定してる訳です。これは揺るがない訳です。その前提がないから、日本では産業だから、お金儲けの水準もあれば、賞を獲ったらみんな喜ぶみたいな感じ。そういう層もあれば、さまざまな層が混然としている状態の中で、映画と言う1つの言葉で全部括られてるから、色んな混乱を招くということがあると思います。

なぜ、公的支援が必要なのか


深田:その意識の曖昧さが映画っていう物の多様性を狭めているのかな、というのは思いますね。よくフランスの助成金制度について感じるのは、凄い乱暴な言い方をするんですけど、彼らはゴダールとリュック・ベッソンとが、そのままの姿で共存できるシステムを作ろうとしていて、つまり商業性を高めるために、ゴダールがリュック・ベッソンに歩み寄ることを求められない。でも日本のシステムにおいては、やはり市場原理主義が強いので、それをしないとお金が集まらないシステムになっているので、結果的にそれが多様性を狭めているんじゃないかと感じます。議論を進めていきたいのですが、なぜインディペンデント映画に公的支援が必要なのか?を、皆さんのお考えを聞いてきたいと思うんですけど、いきなり近浦さんからお聞きしていいでしょうか?
近浦:今、諏訪監督がおっしゃっていたことだと思うんですけど、映画を作るにあたって、産業の論理しか働かないっていうところを、どう超えるかっていうとこだと思うんです。例えば映画を作る時にお金が集まるかっていうことなのですが、基本的に今の日本だど、一般的には役者、どんな原作なのか、この原作だとおそらくヒットするだろうというアセスメントですね。後は感動的なストーリー、そこには多分映画の芸術をどう切り開くのか、とか、どう再定義するのかとか、そういった視点を入ってきていないと思います。そうすると映画の文化全体が、基本的に産業の論理に支配されてしまうっていうことが問題であるので、それをどうやって解決するかは、公的な助成金を使うしかない、ということでいければいいなと僕は思っています。

深田:公的な助成金という定義は多分、凄く広いと思っていて、単純に政府のいわゆる文化予算みたいなものだけじゃなくて、フランスの場合は興行収入から循環させるシステムを作っていて、それが多大な助成金になっている。日本でも映画人の方で多分、公的な資金みたいな概念みたいなものを拡げていかないといけないじゃないかと感じます。
近浦:チケット税というのを日本に導入するのは難しいと思いますか?
深田:本当に10年以内に導入した方がいいと思ってるんですけど、チケット税については諏訪監督もお詳しいと思うんですが、フランスでは10%、韓国では3%なんですけど、劇場の興行収入から一回、フランスならCNC、韓国ならKOFICという公的団体にプールして、再分配するという考え方なんですね。文化庁の助成金の額がだいたい20億円なんですけど、韓国は年間400億円で、フランスは年間は800億円あって、チケット税が非常に大きな財源となっている。それをするためには、日本にはCNCのような公的団体は存在しないので、多分それを作る必要があることと、日本の場合は、一部大手の映画会社:東映・東宝・松竹、まあ大概東宝なんですけど、というのが寡占状態で、まず、彼らに納得してもらないといけないというハードルがあるのかなと思っています。
諏訪:フランスの場合は入場料の10%がプールされる訳ですけれども、そこから助成金というのは出てくるんです。50%は、多く額を収めた団体とか、そういう所に自動的に援助が下りるんですよ。だから文句が出ないですね。自分達こんなに稼いだのに支援が受けられないの?ということが起きないように、半分はその人達に自動的に割り振るんですね。残りの半分を、非常にアーティスティックなプロジェクトだとかにまわしていく。それが15億くらいですね。
深田:大きいですね。
荒木:イギリスは一時、宝くじの収益金の一部を利用していました。今度カジノ法も出来てきますけど、ギャンブルの何%かを文化芸能の方にまわしてくればいいですね。チケットから配分するというのは、どんどん世界の常識になって欲しいですね。
深田:なって欲しいですね。よく日本のインディペンデント的な映画雑誌で、「あんなつまんない映画大ヒットして。何で?」みたいな文句が出て、いや〜な空気になったりするんですけど、それがあると変わるんですよね。もっと稼げと。そうすれば助成金が増えるぞ、と(笑)。非常に平和になると思うんですよね。
荒木:その効果もあるかもしれないですね。
深田:なぜ、インディペンデント映画に公的支援が必要なのか、もうすでに議論の中で出て来てるかも知れませんが、荒木さん、これについて答えるとすると?
荒木:私は、さっき言ったことが全てですけど、あらゆることにチャンスを、あらゆるチャレンジにチャンスがあるっていうのは当たり前の世の中で、当たり前にあって欲しいっていう。そのことで、特にインディペンデント映画っていうよりは、何か新しいことを、人がやってないことを、セオリーのないことにチャレンジする人に、とにかく国は、いわゆる私たちはそれにかけて別に嫌じゃないでしょ?いいことでしょ?そうしないと、国が死んじゃいますよ、私たちの文化も終わっちゃいますし。今100年前で止まったような状況じゃないですか。それがもっと悪くなりますよっていう。常に新しい血を入れて新しいことをやらないと、国が死んでいきますよっていうことじゃないですか?

近浦:そういう感覚を持たれている方って、凄く少ないと思うんですよね。本当に。凄く感銘を受けのですが。そうゆう文化レベルの高い視点を持っている人が増えたらいいなと思います。
荒木:多いですよ。
深田:いや、今の話を伺って、やっぱり今の日本の映画の状況で思うのが、やっぱり生き残り易い人が凄く生き残り易いというか、自分なんかも、とても恵まれていると思っています。やっぱり例えば日本だと、地方出身というだけで映画に関わるのに凄くハードルが上がりますよね。家賃払いながら不安定な低賃金でスタッフをやったり、監督を続けていくのは大変で。結婚しづらいとか子供作りづらいとかの色んなハードルで挫折していく人が多い。だから今映画業界で40、50、60になって関われている人は、努力や才能だけじゃなくて、やっぱりどこかで恵まれているんじゃないかなっていう。そこのバランスの是正、スタートラインでの不平等を、例えば助成金で解消していく必要があるんじゃないかなっていうことを、荒木さんのお話を聞いて感じました。
荒木:辛い人を助けるっていうのは当たり前のことですよね。困難がある人を助けるという事は当たり前のことだからどんどんやった方がいい。
深田:はい。…なぜ、インディペンデント映画に公的支援が必要なのか、諏訪さん、いかがでしょうか?
諏訪:そうですね…例えばフランスの場合では、テレビで映画のCMを打ってはいけないことになっているんですよ。
深田:それ、以前に聞いた時、耳からウロコでした。
諏訪:何でかっていうと、CMが打てる映画にしか観客が来なくなるから。それはよくないねって判断が働いてるんです。その社会は良い社会じゃないですねって。文化の多様性が損なわれますねって言うブレーキが働くっていう社会であるってことですよね。日本だと、どんどんヒットさせて下さい、いいじゃない、儲かれば。映画界全体としてヒット作が出るのはいいことですよねって言うコンセンサスしか得られない。そのことによってお客さんが取られてしまう映画があったり、もっと見なきゃみなきゃいけない映画があるよねっていう視点は完全に抜け落ちている。そして誰もケアしないと言う。どちらかと言うとそういう価値観が日本全体を支配している、というのは確かだと思う。だから、研究者だって日本にいるよりは海外に出ていたほうがはるかに恵まれた環境で研究ができるし、そうすると日本に来て映画を研究するメリットとか、日本で映画を作るメリットというのがだんだんなくなってくる。どっかやれるとこに行って撮るしかないんですよ。映画はどこに行っても撮れるから。言葉の問題以上にね。そういう意味で僕は撮れるとこで撮ってるだけなんで、別にフランスを選んでるんじゃなくて、日本で撮れないから撮れるところに行ってるだけなんです。で、公的資金がなんで必要なのかを議論しなきゃならないかを、議論しなきゃならないと言うところがね、非常に課題なんだと思いますよ。それが当然ですよねっているところに、どうやって迫っていけるのか、我々のできることは何なのか。1つ1つやっていくしかないと思ってます。
荒木:それを言語化したいんですよね。

諏訪:いいことではないかも知れないけれど、例えばヨーロッパでやってる実感としては、コマーシャルフィルムとアートフィルムというのは、完全に分離しているんです。アートフィルムというのは公的資金を得て作ってるわけですね。だからそのことの甘えもあるんですよ。ある意味で。このふたつが割れてしまうことで、お互いがお互いを軽蔑しあっていると言う構造自体が、すごく退屈な構造なんだけど、日本の面白さはそういう区別がないところで、雑多で多様。そういった多様性がまだあるなとは思うんですね。だけど一方で、映画には産業的な側面、経済的な側面だけでは無い、人が沢山観る映画がいい映画ではないという側面があるという、いくつかのレイヤーがあるんだということを、そのことをひとつ、はっきりさせていく必要はあるのかなと思います。
荒木:ちなみに諏訪さんはフランス語出来ないんですよね。
諏訪:はい、すみません。ハリウッドだって、移民が行って、いっぱい映画撮ってた訳ですし。
深田:やっぱりこのインディペンデントの公的支援が必要なのかっていうのは、言語化したいなと思っていて。自分なりにも色々考えてることがあって。でも話すと長くなってしまいます。

どう社会を説得するか


土屋:じゃあ、ひとつ質問です。今話が色々出ていて、とにかく映画の多様性が損なわれる、商業映画だけになってしまって、商業主義で人が多く入る映画だけがいい映画であるという論理で映画が作られることによって、小さな映画、少ない人数の心にしか響かないけど強い映画みたいなものが、なくなっていくということだと思うんですけど、あえて言いますけど、そういうのがなくなると、どんな悪いことが起きますか?というのを聞きたいんです。つまり、そういうのがなければいけないのを、どうやって、そういう映画が好きじゃない人に対して説得するかと言うか。深田さんから答えて下さい。
深田:最近ずっとそんなことばっかり考えていて、結局、自分の中の今現在の結論としては、民主主義のためだと思っています。結局、民主主義って何だって考えた時に、いかに多数決の原理を超えていくかということだと思うんですね。民主主義における多数決の制度化は、何かしらの意思決定の必要に応えるための便法でしかないわけで、でもそれだと結局自由と平等の原理には本質的には馴染まない。では、多数決からこぼれ落ちるマイノリティの声を汲み取る、真の意味での民主主義が成り立つためには、多様な価値観、多様な意見、感情が社会に顕在化して、「見えてる」必要があると思うんです。多様な価値観を社会に見えて聞こえる形にするのに、文化・芸術はとても大きな役割を果たしています。だからこそ、いわゆる表現は、規制なく自由に好き勝手に、公的価値なんてことも民主主義なんてことも個々の表現のレベルにおいては考える必要もなく、衝動に従って表現できる環境をただ準備することが、いわば民主主義の健全な発展というか、成熟に欠かせない。だからこそ、欧米ではずっと表現の自由を、死ぬ気で守り続けているんじゃないかなと思っていて。映画ということに関して言うと、やはりリュミエールが最初にやったことは、世界中にカメラマンを派遣して持ち帰るということですよね。やはり知らない文化・知らない言語・知らない国を知るのに、映画は適したメディアだと思うので、そういった意味でやっぱり、映画の支援というのは非常に重要じゃないかなと。特に今は誰でもスマートフォンとかで映画を撮って発信出来る時代なので。メディアリテラシーという観点においても映画教育は重要なんじゃないかなと思っています。

諏訪:今の話だけど、色んな観点がすでに入ってますよね。メディアリテラシーと自由であること、少数を守ることは別の問題です。少数であることを守るのは民主主義の問題で、それはひとつの大きな問題だと思うけど、少数であるから価値があるのかというのと、また自由であるということとは違うと思いますね。僕は自由であるということが大事だと思うし、自由である社会っていうことを守らなければいけないという観点が非常に大きい。それは芸術の持っている本質的な問題だと思いますね。だから映画が自由でなくてはならない、ということが非常に大切だと思います。それが共有されていない。例えば大学の問題でもそうですよ。大学っていうのは、役に立つことやれって、今言ってる訳ですよ。それは世界的にそうだと思います。よくわからないことやってるんじゃなくて、ちゃんと結果が出ることやりなさいという流れになって来てる訳ですね。だけどそのことと、大学が本来追求すべき自由であるということと相矛盾しているわけです。芸術においてもそのことが適応されようとしていて、これが一体何の役に立つの?どういう効果があるの?ということを客観的に評価出来ますか、みたいな話になってくると、やっぱり全く自由の社会じゃなくなってくることになる。これは大前提なんですよ。これはやらなきゃならないことなんですよ。疑う余地は無いことなんですよ。
深田:はい。疑う余地がないと言い切ることを、多分日本映画は半世紀位、もしかしたら100年くらいサボってきたのかなという気がしていて。自分も改めてやらなくきゃいけないんだな、と思います。
荒木:ドイツの各都市に、映画の博物館があるんですけど、フランクフルトの映画の博物館がすごく好きで、そこで映画の創世記の映画を、エンドレスでかけてる部屋があるんですよ。1時間ぐらいあるんですが、映画の草創期の、各国の映画が全部観られる。そこに必ず行くんですけど、映画ってたんだん驚かせたり、トリックを使って特撮のほうに発展していったんだということが良くわかります。エンターテイメントっていうのは本質的にどうしても必要だと思うんですよ。それとは別に、そこに知らない人がいる、ここに知らない文化があるていうことを伝播する力というのも同時に凄くある訳で。両方ないと面白くないんですよ。単に面白くないということですよ。映画がないと面白くない。
今、私たちが思っている映画と100年前に思った映画というのと100年後の映画とは全然違うと思う。私達が今何をやらなくちゃけないかと言うと、映画・映像というもので、新しいものが生まれることを止めてはならないということ。止めるのは簡単、止めないことのほうが難しい。止めないためにやりましょう、としか言えないと思うんですよ。とにかく100年後1,000年後に、人類が豊かであるために、今何が出来るかということを、考えることしか出来ないと思うんですよ。だって分からないもん。だけどなくなったら、絶対につまらないことですよ。
近浦:全く同感ですね。少数派を守るという観点は、実は余り僕にはピンとは来なくてですね。産業の論理、いわゆる過去の統計データーにおける未来の予測なので、結局その論理だけだと過去の焼き直しに終始してしまう。そうすることによって、おそらく文化というものは陳腐化していくだろうと思うので、新しいものを生んでゆくチャレンジを、どう支援するのかと言うことだと思うんです。結果それが多様性につながっていけばいいと思うので、多様性を保証して担保するというよりは、どう新しいものが生み出せるか。過去の統計ではヒットしない、お金が集まらないと言われているものに、お金を投じることが出来ることによって、どういう風に新しいものを生んでゆく土壌を作っていくか、という。それがひいては、そういう未来は豊かだよねっていう価値観、そういう未来に繋がるのかなと思っています。
深田:芸術の価値は多分、同時代的な経済的評価からは計り切れないというのは、ゴッホなんか分かりやすい例ですよね。貧困のうちに死んでいったゴッホが、100年後にオランダにどのような富をもたらしたかという。

諏訪:深田さんは感じられてると思うけど、日本から出ると、どこにいっても僕たちは、ある日本映画の歴史的な恩恵にあずかってるという感じがするんですよ。日本映画に対する尊敬というのは、非常に強いですよね。あらゆる人が日本映画を観てますよね。歴史的な前提があるが故に、自分達の映画を出しやすいというプライオリティが既にあると思うんですよ。多分外から見ると、中にいる日本の若手の映画作家たちを、同じように育てようとするシステムや考え方が日本にないということに、すごく驚かれる。日本の若手の子たちはみんな、自分達でやるしかない。だけど国として考えた場合は、過去、こんな映画人たちを排出した、それはより多く観客を集めていた人たちでは無いかもしれないけど、いまだに国際的な価値を持っている人たちを生んできたという国な訳なんですよ。なぜ継続しようと考えないのか、という問題が、単純に日本につきつけられていると思います。
土屋:何となく方向は見えてきましたね。近浦さんの言ってたことで、僕はちょっとわかりやすく、なるほどと思ったんですけど、新しいものを生むためのチャレンジを助ける、ということ。それをやることによって、多様性は損なわれず、そこからもしかしたら商業的に成功するものも出てくるかもしれないし。それはその後の話であって、まずは何か新しいものをやろうとしているものを助ける。そこの考え方でいくと、じゃあ何を支援すべきかというのも、見えてくると思うんですよ。似たようなものを作ろうとしてる人に支援してもしょうがない的な。
深田:まあなかなか、基準が難しいと思うんですよ。最後にこの機会にご紹介したいなぁと思っていて。最近映画鍋で、イベントの度に結構表示しているので、見てる方も多いかもしれませんけど、どのような映画を支援すべきなのか、その一例としてKOFIC-韓国映画振興委員会って、いわば韓国が、フランスのCNCを参考にして作った、韓国版CNCに当たる公的機関なんですけど、これが素晴らしいのが、単にフランスのCNCの丸パクリをしている訳ではなく、韓国なりの独自の視点で作り上げているんですね。それで韓国映画の助成金の中に多様性映画という定義を作ってしまっている。それが結構凄いんですよ。大きく分けて5つの基準があって、これは以前鍋講座でKOFICの方に教えてもらったのですが、
①芸術性や作家性を大事にする映画
②映画のスタイルが革新的であり、美学的価値がある映画
③複雑なテーマを扱い、大衆が理解しがたい映画
④商業映画の外で文化的・社会的・政治的イシューを扱う映画
⑤他国の文化や社会に対する理解に役に立つ映画

③は、よくこんなの入れたなと思うんですけど。大衆が理解しがたい映画という…。④については、政治的であることが助成金対象から外れる理由にならなくて、むしろ政治的であることが助成金の対象になるという明快な宣言ですよね。⑤は、非常に素朴ですが確実に映画の担う役割を説明していますね。やっぱり、これだけ見ても多様性って言うだけあって、映画の色んな魅力、革新的であるということや、他国の文化、マイノリティに寄り添っているかとか、色んな所をちゃんと丁寧に拾っていかねばいけないなと、KOFICのこの定義を見ると感じます。

Part 3: ディスカッション



土屋:第3部を始めましょう。モーリーさん、ヘニさん、色々この間、これまでの僕らが話してるのを聞いていて、「何を平和なことを言っているのか」とか、感想やら何やら、もしありましたら。
モーリー:とても面白くお聞きしました。インドネシアと比べながら聞いていたんですけど、現在、私たちは長編映画への公的支援がない状況ですが、このシンポジウムを通して、出発点にしていくことが大事かなと思っています。いずれは皆さんが話し合われていることが、インドネシアでも理解され深まっていくこと願っています。
ドゥウィ:同感です。
土屋:第1部で出た「自己規制」や「自己検閲」についても含め、深田さん、よろしくお願いします。
深田:おそらく検閲に関して言うと、去年インドネシアで合作とかやらせて頂いたので、やっぱり裸に対する規制が非常に厳しいとか、それはたぶん信仰によるものが多いのかなあと思うのですけど、検閲については皆さん、作る段階から意識しながら作っているのでしょうか?
ドゥウィ:検閲ということに関しては、おっしゃったとおり、宗教機関という所とも関わりがあります。でもそれだけではなくて、やはり国による検閲というのが1番大きいと思っています。ただ、ストーリーを語っていくのにその場面が本当になくてはならないのかは、作る過程で問うてみる必要があるという風に考えています。無理をして入れたことによって、結局作品が切られてしまうのであれば、本当にそれがなくてはならないのかをよく検討する必要があるのではないか、という考えです。確かに検閲ということが非常に難しいです。政府による検閲というものがありますけども、インドネシアの場合、それ以外のものによる検閲というものが存在しています。それは例えば、社会の中に存在する非常に急進的なグループであるとか、そういったグループから何か影響受けてしまう、ということも起こっています。ただ、私たちは戦略も持っています。ジョグジャカルタ特別州からの資金を受けて作られた作品も、国外の映画祭に出すときにはディレクターズカット版を作って出しています。話の内容は全く変えずに、です。
一同:唸る

日本での検閲とは?


土屋:そういうしたたかさと言うか、圧力があると、それに対してアイディアが浮かぶというか。その辺の戦略的なやり方が、とても面白いなあと思うんですけど、僕らにはそういう強い圧力はありますか?映画を作る上で。基本、検閲はないじゃないですか。日本では。
深田:一応、そういうことになってますよね。

土屋:ただし、さっきの助成金、「こんな映画を、国の金を使って撮ってもいいのか?」みたいな、そういうのに対する自主規制的なものも、頭の中にあったりとか。「こんなのじゃヒットしないから、俺はもっと商業的にしなきゃいけない」だとか、様々、そういう、自分で作るアレがあるじゃないですか。
深田:多分、検閲がないって言い切ってしまうのは、多少危ういところがあるかな、と思います。アートの世界で言うと、美術館とかそういう所では、やはり検閲があるという話は、よく聞くので。例えば日本の加害の歴史について触れようとしたりとか、天皇の戦争犯罪について触れようとする途端、検閲が入るという話はよく聞きます。映画に関して言うと、自分は「経済的検閲」と言う、なんか勝手な言葉を作り出しちゃってるんですけど、結構これって大きいと思っていて。やっぱり日本の場合は産業的に、市場で利潤をあげられないと映画は作れないですね。助成金や寄付金の少ない国では、市場からしか制作費が逆算できないので。日本で映画を作ろうとすると、やはりある程度商業的に当てることを見込まなくちゃいけない。一方で、日本にある検閲って映倫ですよね。性的な表現・暴力的な表現があったりすると、R15になって、R18になったりする。これが結構曲者で、日本の寄附金や助成金が少ない、「経済的検閲」が厳しい国で、かつそこに映倫がセットになると、結局、R15、R18に出来ないんですね。助成金がもしあるんだったら、全然出来るんですよ。助成金で興行的リスクをある程度抑制出来るので。でも市場原理主義の中で映倫という業界内での規制団体の規制が合わせ技になると、結構、現場で毎回毎回議論になりますね。「ここまでやるとR15やR18になっちゃう、それは困る」という話を、プロデューサーとよくします。

質疑応答(一部抜粋)


戸田桂(文化庁芸術文化課文化芸術調査官映画担当):この場だと居心地が悪いのですが、文化庁の戸田と申します。皆さんの今の議論を聞いて、まだ皆さんに理解して頂けていない部分はあると思うのでので、私の方からもお話をさせて頂いてから、いろいろな議論をして頂ければと思っています。まず、諏訪監督の『ライオンは今夜死ぬ』は、文化庁の国際共同製作支援を受けている作品なので、日仏合作です。

諏訪:はい。合作なんですけど、フランスから見た場合はフランス映画とみなさなければならないということを抱えているんですよね。
戸田:先ほど近浦監督から、撮影の部分にだけ援助があって、他の部分にはないという話があったのですが、撮影にだけ注目しているということではありません。これは日本の行政全体の問題ですけれども、助成が単年度で年度内に成果物を出して頂かなければならないので、そういう形になっていて、そこが乗り越えられないので、前回の映画鍋でも、2カ年助成の仕組みを作ったことをご説明させて頂きました。また、映画制作の話だけをされているので、もしかしたら皆さんはご存じなかったりするかなと思うのですが、文化庁では映画作家の育成から、皆さんが作った作品を海外に持っていく場合の字幕や渡航の支援、海外映画祭のジャパン・ブース出店などの事業を、毎年委託先の各団体に運営をお願いして行っています。本当は映画一本に様々な形でサポートが出来ればいいと思うのですが、別々な事業としていかなければならないこともあり、振り分ける形で支援をしています。
荒木:まず最初に、どんな支援があるかを紹介してから、話を始めた方が良かったですよね。
深田:一応、そこについては把握していまして、自分は制作に集中しがちというような言い方をしたんですけど、例えば、映画祭とか上映イベントに対しての支援はあるけど、劇場に対する支援が薄いとか、薄いという表現を使わせて頂きますけど、色々と支援がないわけではないことを前提にして、という話です。
戸田:映画祭については、芸術文化振興基金の助成により、FILMeXや山形のような大きなものから、上映活動ということで爆音映画祭ですとか小規模なものにも支援があります。(劇場に対する)上映活動についてですが、現段階では実現できていませんが、広く多様性がある作品を国民全体に、首都圏だけではなく色々な所で観て頂けるよう、来年度はそういうものに取り組みたいと、予算を組み要求しました(残念ながら実現せず)。
土屋:ありがとうございます。
戸田:私も映画の業界から文化庁にきた人間ですが、こういう議論の場面に、どうしても国v.s.制作者、国v.s.映画界という話になってしまいがちです。それには、日本の場合はフランスだったりイギリスのように財源が、業界の中の財源だったりする訳ではないので、広く国民に還元される必要があるという税金の大前提があることと、色々な理解が共有されていないという理由があると思うんです。V.s.国という前に、国民の方々が、例えば観客がとても少ない映画であるとか、マニアックな作品に支援する必要を支持するかどうか。そういった国民の方々に向けて理解を得られるような環境づくり、そのような視点で話を伺えればと思います。
土屋:一つだけ戸田さんに質問なんですけど、今のお話で、国民に向けて映画の公的支援が必要であるということを、v.s.国じゃなくて、納税者たち(国民)に向けて言葉を発した方がいいんじゃないか、というお話だったと思うんですけど、今日僕らが話していた内容は国民に伝わると思いますか?何となく、新しいものを生むためのチャレンジを助けるべきなんじゃないか?とか、このままだと国がどんどん死んでいっちゃうんじゃないか?とか、そういう言葉が出てきたと思うんですけど。
深田:なんか、民主主義とかいうワードも出てきましたね。
戸田:新しい文化・環境を育てていくことが必要なんだということ、それは本来伝わるべきだと思いますし、そういうことを国民のみなさん全体が感じるような状況を作っていければいいのかなと思います。芸術を扱う行政の側でなかなか国民全体から理解は得られていないと感じているところですので、何か突破口がないかなと思います。来年度から、(芸術による子供の)教育にメディア芸術という柱を立てて入れましたので、そういうところからスタートになるのではないかと思っています。
諏訪:僕が今日お話しした基本的なところでは、国にもうちょっと何とかして欲しいよねっていう話だけではないと思うんですね。結局、フランスの場合でもそうですけど、我々とか業界とかがどういう状況を作り出していこうとするかっていうものがなければ、それは動いていかないと思うし、一番大きな、税金を使う公的助成においては、やはりコンセンサスを得ていると言うことが、どうしても必要になってくる。その時に我々がどういうことをアピール出来るのかってことが、やっぱり問われていると思います。

荒木:全てのことと同じで、誰かが何かをやってくれるのを待ってるという状況では何も始まらないので、自分の出来ることを少しずつ、少しずつやっていくということが1番大事だと思うんですよ。なので、こういうシンポジウムで1番役立つ事は、もしかしたら何か自分のやれること、自分の日常のちょっとしたことを変えるとか、ちょっとした発想を変えるってことが凄く大事だと思うので、私も今回自分がやってることで、未来に向けて何がもっと何か基本的な出来るだろうかと考える時間になって、とっても良かったと思ってます。
諏訪:今、子どもの映画教育についてやってきて、子ども映画教室についてこないだ映画鍋でもやりましたが、それも非常に重要だと思っているんです。これもフランスがまたリードしてるんですけど、教育に長い歴史を持っているので。僕も小学校で授業の中で映画をやったんですね。小学生は大学生以上に映画をちゃんと観ますよ。大学生になると、日本とフランスは全然違うんですけど、小学生は、作る映画もだいたい似てます。映画を観る力も、あるんだよね。でもその後の教育で育っていかない。その後の日本の社会が持ってる教育問題をそこに表していると思うんだけど。そこら辺の観点も、非常に重要かなと思います。映画を観る人たちを育てていくって言うことを、長いスパンで考える必要があると思います。
深田:これもあちこちで言い続けてる話なんですけど、あるフランス人監督のインタビューで、彼の娘さんが小学校の映画の鑑賞授業で小津安二郎を観た、面白かったって言った話をインタビューで答えてたんですけど。日本の大学生も観てないかもしれない小津安二郎を小学生が観てるっていう状況が、どれだけ子どもたちの映画や社会に対する意識の多様性を育てるか。まぁ、映画教育で映画を観続けて映画嫌いになっちゃう子もいるそうですけど、でも結果的に、大人になって映画を観る割合はフランスの方が日本より全然多いっていう状況だったりするし、例えば日本でもすべての小学校でイラン映画を観せるだけで、どれだけイランという国に対する理解が変わってくるか、ただの悪の枢軸国じゃないんだなっていう風に違ってくるわけですよね。やっぱりそこらへんに対する映画が教育において果たせることと言うのは、まだ結構いろいろあるんじゃないかなという風に思いますけど。
土屋:でもそうやって映画教育から始めて、これから小学生が大人になるまで待つとさぁ、20年位かかるよ…。(苦笑)

深田:私達の話ですよね。でも20年経って出来ればいいんじゃないですか?映画鍋が始める時に15ヵ年計画と言ってたんですけど、15カ年の予定が7年近く経ってまだあまり変わってない気がするんですけど。
土屋:話は尽きませんが、今後どんどんこのテーマを繋げていって、議論を重ねたいと思います。映画鍋ができたのが6年前ですけれども、その時も韓国いいね、フランスいいねって言って、どうしよう?というところから始めましたが、羨ましがってばかりではなく、もっとしっかりやらねばということで、皆さん一緒にしっかりやりましょうと、映画鍋としては皆さんにご協力をお願いしたいと思っております。今日は皆さん、どうもありがとうございました。
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諏訪敦彦[映画監督/東京藝術大学大学院映像研究科教授]
東京造形大学在学中にインディペンデント映画の制作にかかわる。卒業後、テレビドキュメンタリーの演出を経て、97年に『2/デュオ』を発表し、ロッテルダム国際映画祭最優秀アジア映画賞受賞。『M/OTHER』でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞。その他の主な作品に『H Story』『パリ・ジュテーム』(オムニバス)、『不完全なふたり』、『ユキとニナ』など。2018年ジャン=ピエール・レオー主演の新作『ライオンは今夜死ぬ』が公開された。
荒木啓子[ぴあフィルムフェスティバル ディレクター]
1990年PFF参加。1992年よりPFF初の総合ディレクターを務める。コンペティション「PFFアワード」を通して若き映画人の輩出や育成を積極的に行うと同時に、招待作品部門ではダグラス・サーク、ミヒャエル・ハネケのアジア初特集など、映画の過去と未来を伝える企画を実施。近年ではPFF関連作品のみならず、日本のインディペンデント映画の海外紹介にも力を入れ、日本映画の魅力を伝える活動を幅広く展開している。
近浦 啓[映画監督]
2013年、短編映画『Empty House』で映画監督としてキャリアをスタート。第2作短編映画『なごり柿』は、クレルモン=フェラン国際短編映画祭に入選。第3作短編映画 『SIGNATURE』は、ロカルノ国際映画祭の短編コンペティション部門にノミネートされる。 長編デビュー作品となる『COMPLICITY』は、第43回トロント国際映画祭でワールドプレミア上映された。同作品は、第19回東京フィルメックス特別招待作品に選ばれた。
【採録】山岡瑞子
【通訳】藤岡朝子・亀山恵理子・谷元浩之
【メインビジュアルデザイン】鈴木規子
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